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小説冒頭を考える:乙一「暗いところで待ち合わせ」

 小説の冒頭というのは、読者を物語世界へ連れ込めるかどうかを決める重要な分水嶺です。そのため、作家が一番熱を入れる部分です。その「冒頭」について個別作品を取り上げ云々してみようというのが、今回の記事の趣旨です。

 

 今回取り上げるのは乙一の「暗いところで待ち合わせ」です。

 著作権の問題でここに直接掲載することはできませんが、読書メーターというサイトで冒頭は試し読みできるので、興味を持った方は是非読んでみて下さい。

https://bookmeter.com/books/580403

 

 検討対象とするのは2ページ目(表示では5ページ目)の終盤、<父だけ残していくような罪悪感があった>までの約1,000文字です。

 

 物語はヒロインの3年前の話からはじまります。彼女が視力を失うまでの流れ、視力を失うことになった原因、徐々に薄暗くなっていく世界、父への申し訳なさなどが平易な文章で書かれています。

 

 今回は、この冒頭で素晴らしいと感じた3点について語ってみました。

 

①沢山の「皮肉」が詰め込まれている

 青信号を渡っていたのに車にはねられたという皮肉

 車にはねられたが何もけがをしなかったという皮肉

 何もけがをしなかったが、失明したという皮肉

 失明することに対し彼女はどこか他人事のように感じているという皮肉

 唯一の不安である父についても、すぐ死んでしまい解消するという皮肉

 

 人間は何事も思うがまま進んでほしいと思うものです。

 しかし、そんな人の思いを嘲るように皮肉な出来事は襲い掛かります。

 理不尽に巻き込まれた人間だからこそ、この先世界とどう対面していくのか、或いはそんな可哀そうなヒロインをヒーローがどう救っていくのかが、気になってしまうのです。

 

②視力低下の情景描写の見事さ

 ヒロインはまず病院が薄暗いことに気づきますが、それが普通のことなのか、弱っている蛍光灯を取り換えていないのかわかりません。つまりこの時点では自分の視力の異常に全く気付いておらず、病院側が原因で薄暗いのだと思っています。

 しかし、「子供連れの女性が普通に雑誌を読んでいる姿」を見て自分の目がおかしくなっているのだと気づきます。

 このワンクッションにこそ描写の神髄があると思います。

 視力が下がったとだけ書くのではなく、気づくまでの一連の流れを描写することにより、読者に情景を想像させるとともに、ヒロインの感情の流れまで追体験させてくれます。

 乙一の文体が平易でも心にすっと入ってくるのは、このような「必要な描写を必要なだけ描く」ことがしっかりできているからだと思います。

 居間の窓から駅のホームを見ているシーンの描写も同様に素晴らしいです。こちらは後々伏線としても活きてくるのですが、こういう伏線の忍ばせ方は他の作家の方でも普通にやっているので、描写の精度と比べれば取り上げるほどのことではないかもしれません。

 

③空っぽだが、好感を持てる人物設定

 ヒロインのみちるは視力を失うことに対してどこか他人事のように感じています。心配しているのは父の食事の世話などができなくなることくらいで、自分の生活や人生について、くよくよ悩んだりはしません。だからと言って超前向き人間というわけでもありません。目が見えなくなってもそこまで落ち込んでいないことから、将来の夢や欲望などもほとんどないのでしょう。また、一人で旅行したことがないことについて「それが一般的かどうかわからない」と書かれているあたり、周囲の目をあまり気にしないタイプなのも察することができます。

 みちるは「空っぽの器」だと言えます。

 これは創作物では人気のある設定です。空っぽだからこそ素直に色々なものを受け入れ学んでいく。またヒーローから大きな影響を受けやすい。物語を引っ張っていく力のある設定です。

 

 その一方で、みちるは好感を持てる人物として描かれています。父子家庭ながらグレることもなく、父の食事などのせわをするような「良い子」です。

 そんな「空っぽだけど良い子」が皮肉な現実に直面したのだから……続きを読みたくなるのも道理なのです。

 

「暗いところで待ち合わせ」の冒頭には必要なものがすべて詰まっている

 暗いところで待ち合わせの冒頭部分はそこまで派手なものではありません。簡単に言ってしまえば「ヒロインは3年前失明しました」と書かれているだけです。しかし乙一はたった1,000文字の中で読者に視力低下を追体験させ、ヒロインが好感を持てる人物だと紹介し、そのヒロインがどんなに皮肉な状況に陥っているかを語ることにより、物語世界へ誘ってくるのです。

 

暗いところで待ち合わせ

暗いところで待ち合わせ

  • 作者:乙一
  • 発売日: 2013/08/09
  • メディア: Kindle
 

  

 表紙はちょっと不気味ですが、ホラー要素はほぼないので安心して読んで下さい。とても心温まるお話です。